古き良き(?)山口時代
(1)これがヨット部の実体か・・・
3期・主将 柿木達也(現会長)
ヨット部創設当時は、ヨット部といっても、その実体はないに等しいものでした。あったのは、ただ、我々の夢と希望だけだったのです。しかし、ヨット部創部の呼び掛け人であり、ヨット部の部長であり、教養部倫理学教授である村上先生の頭の中には、はっきりとしたイメージがあったのかもしれません。しかし、我々は夢と希望ばかりが先行し、具体的にどうしてゆけばよいのかわかりませんでした。当時の活動を振り返ってみますと、夢や希望とは程遠い、憂鬱なものでありました。
昭和51年の10月頃の話です。創設の旗揚げがその年の9月ですから、実体のなさに懐疑と不安と不満の時を一ヶ月ほど過ごした頃でした。まだ平川は残暑厳しく、日中は特に湿度も高く、下宿で横になっていたいようなそんなある日のことです。当時の平川の大学通りは、店もまばらで、大学から湯田温泉へ向かって右側には、まず山陽種苗があり、それから下宿屋が3〜4軒あり、その先に自転車屋があったと記憶しております。それからまた下宿屋が何軒かあって、共営社があったぐらいですか、それから先は、ビリヤードがあり、もう椹野川でした。
向かって左側には、角に文栄堂書店、ベスト電器、食堂等があり、喫茶店の上高地や巨泉が続き、長門館というほとんど学生専用みたいな食堂がありました。味がどうのこうとの言ってる場合じゃないくらいに、大盛りカレーと大盛り中華丼はものすごい量でした。それから、これまた学生のためにあるような、いわゆるなんでも屋の、徳光商店というのがありました。ちなみに、大学の南門付近には、オールナイトの店、通称「ばあちゃん店」というのもありました。やはりなんでも売っているような店ですが、夜中いつ買いに行ってもばあちゃんは出てきますし、昼間買いに行ってもやはり出てくるので、いったいいつ寝ているのか話題になった店です。それから徳光商店の先は、春になるとなぜかガレージが家具屋になっていたりしていた店があったりして、しばらく空き地があって、そこには、赤錆びた骨組みだけが残っている自転車置場の屋根があり、ちょうど道をはさんで向かいが自転車屋のあたりであったろうと思います。その向こうは下宿や民家が続き、椹野川でありました。記憶も薄くなり、正確ではない部分もあるでしょうが、だいたい上記のようであったと思います。
憂鬱な活動というのは、この自転車屋の向かいの空き地にころがっている鉄骨を運び出すというものでありました。もう大学に入学して半年程経っているから、友人もおるわけで、私の働く姿を見て真剣に声をかけてくれる者もおりました。さぞみじめに見えたのでしょう。つまりガラクタ集めのバイトでもしてるように思われたらしいのです。暑い中、汗と埃にまみれて鉄骨を解体していたのはもちろん私一人ではありません。総勢6〜7人位だったでしょうか、みんなで頑張ったのです。この奇妙な、一見何の関係もないような活動が現在のヨット部に連なると、いったい誰が思えたでしょう。ただただ憂鬱であっただけでした。私たちの部室ができて何になるのかとつい愚痴も言いたくなるような状態が、その後も延々と続いたのです。
ヨット部がヨットに乗れないのですから仕方ありません。ヨットに乗るも何も、実体がないものを、まずなんとか、何か実体のありそうなものにという過程しか存在しなかったのです。要するにヨット部でなくても、何部であっても共通の過程であったろうと思います。いや、ヨット部だからこそ、他の部と違って、実体を創っていくことが難しかったのだろうと思います。もちろん、この頃思うわけです。しかし当時はつかみどころがありませんでした。