古き良き(?)山口時代

(2)ヨット部誕生から部室の完成まで

   〜ヨットはなくともわしらはヨット部じゃ。〜

3期 佐藤昭信

 1976(昭和51)年9月、2ヶ月の夏期休暇を終え、活気を取り戻しつつあった山口大学キャンパスの各学部掲示板に一枚のビラが掲示されていた。ポスターというにはほど遠く、色あせたこのビラに目を留める学生のほとんどいない中、ふっと足を留めじっと見つめる者も何名かいた。私もその一人である。この一枚のビラからヨット部の歴史が始まったのである。

 このビラには、村上保壽部長名で、ヨット部創設につき部員募集の旨及び希望者集合の日時等が記されていた。大いなる期待と不安のうちに、同年9月18日(土)、教養部○○教室にて、第一回部会が開かれた。(この時のメンバーは別紙のとおりである。名前は全て直筆で書かれている。)

 この記念すべき第一回部会に集合したメンバーを前にして、村上部長は次のように述べられた。「ヨット部には何もない。全くのゼロからの出発である。したがって、当面は大学学生部に活動を認めてもらい、部昇格への足固めをすることから始めてほしい。それゆえ、君達の卒業までにヨットに乗れることはないかもしれない。このことを覚悟しておいてほしい..。」と。−このような厳しい現実の中でヨット部は誕生し、初代主将に永島正章氏が推薦された。その後幾度かの部会を重ね、我々の目指したことは唯一つ。−山口大学学生部にヨット部の活動、存在をアピールすること−であった。そのために我々は、@自前のヨットを製作し、学生部長の前で、そのヨットを浮かべてみせる。A陸上トレーニングを続け、運動部としての活動を印象づける。の二点を活動の柱とした。かくして、ヨット部は具体的に活動を開始した。

 陸トレとヨットの製作。いずれも遠い将来を見越した現実性の乏しいものである。特に陸トレの場合、即ヨットに乗ることを主眼にしたものではなく、精神的につらいものだった。それでも、黙々と続けられた。陸トレと平行してヨット製作に向けての活動も進められ、そのための作業場として、大庭・杉谷両氏のとりはからいで、中国自動車道湯田PA近くの空き地と宇部ボイラー社の廃屋を確保した。時はすでに10月。いよいよ作業場(部室)作りの開始である。

 我々は喜び勇んで部室建設予定地へと足を運んだ。そしてその土地を目の前にして..。思わずため息をつく者もいた。土地といっても全く整地されておらず、起伏の多い上に草は伸び放題。気を取り直し、我々は整地に着手した。スコップを手にし、放課後はもとより授業のない時間をも利用して作業を続けた。この仕事は思ったよりきついもので、ひとりふたりと手を離れ、しばらくすると実際に活動する者は3〜4人という状態であった。

 さて、整地も何とか完了していよいよ部室の建設である。基礎を打ち込み、鉄筋を組み立てて、何とか部室の形も出来上がっていった。あとは屋根と床・壁のトタン・板張りであるが、その材料も資金もない。そこで考えたのが、学校内にある廃板や選挙用ポスターの掲示板の利用である。それ以来我々は夜な夜な廃板集めへと走り回った。来る日も来る日も、廃板を自転車にのせては作業場へと足を運んだ。そして11月..。ついに部室は完成した。記念すべき我々の唯一の城の完成。そして、この部室で初めてのコンパ。飲んで飲んで飲みつぶれるまで飲んで..。扉を開き、外へ出ると小雪がちらちら。冬の訪れ。我々はさらにヨット部の完成に向けて歩んでいくのである。



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