古き良き(?)山口時代

(3)スパロー生まれる

3期・工学部主将 沢辺則彦

 山大ヨット部が生まれるまでの背景は、この節以前に書かれている通りですが、その時私は大きな誤解をしていたようです。教養の掲示板に貼られた「ヨット部創設の為、部員募集」を「ヨット部ができました、部員になりませんか?」という意味に誤解していました。考えてみればそんなに虫の良い話などあろうはずがないですよね。

 ここで少し私事を書かせて欲しいのですが、私は大学を受験する条件として次のことを考えていました。第一に工学部の化学系であること、もう一つはヨット部があることでした。私は広大に受かるつもりでいました。一緒に受験に行った中学時代からの友人に、広大に受かったらヨット部に入るつもりだという旨の事を何度も何度も話していた様です。しかし、幸か不幸か私は入試に落ちてしまいました。幸かと書いたのは、ヨットの事をよく知った上でヨット部に入りたいと考えていた訳ではなかったからです。たぶん広大ヨット部では4年間辛抱しきれなかったことと思います。

 何の因果があったのでしょう。私は山大に入学しました。ヨット部はもちろんありません。高校時代にやっていたラグビーにも打ち込めず、悶々とした日々が夏まで続きました。ヨットのことを忘れかけていた夏休み、広大に一緒に受験した前述の彼と偶然再会しました。彼の顔は真っ黒く焼けただれていました。理由を聞くと「沢辺が言っていたヨットとはさぞ素晴らしいものだろうと思って広大のヨット部へ入部したいや。」でした。そして、今の山大ヨット部の一年生とほぼ同じ境遇を延々と述べて最後に一言「ワシ、もうヨット部やめるつもりじゃ。」そして、別れ際に「オレはヨットがやりたくてもやれんのど。」と彼に向かって言ったのを今でもよく覚えています。その時に私の心の中に「クソ〜」という何かが芽生えたのでした。

 そんな事があった翌九月、掲示板に上記貼り紙を見つけたのです。集合場所に行ってみると何人かの人が船の図面を見ながら何やらワイワイやっておられる。遠くから様子をうかがっていると、「何もないからヨットを作るのだ」などと聞こえてくる。アレ、様子がおかしいな〜とは感じたのではありましたが、私の心の中に芽生えた”何か”が私を引きとどめたのでした。

 そのヨットの名前はスパロー、日本語ですずめです。今はその黄色いボディーを艇庫脇に横たえています。私は唯一の工学部員という理由で作業長なる肩書を頂きました。講義中にヨット作成についての文献を読みあさりました。山口駅近くの材木屋で材料をそろえました。道具は萩金物店で買いました。昭和51年の冬休みから作業にかかった様に記憶しています。作業は丁度寒い盛りでした。同期の安藤・佐藤君と夜遅く自転車で手をかじかませながら帰宅するという日々が二ヶ月ほど続きました。村上先生の奥さんのみそ汁とおにぎりの差し入れがものすごくおいしかったのを良く覚えています。春休みには秋穂の縄田造船でFRPを用いての仕上げ作業の勉強をさせたもらいました。4月上旬、教養のプールに浮いたスパローはたいそう学生部の方々に深い感銘を与えたと聞いています。スパローの最初で最後の晴れ姿でした。今でも時々デッキ裏のサインを見ます。



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