あるヨット集団の誕生

誕生までの背景(1)

顧問教官・部長 村上保壽(現名誉会長)

 昭和51年の夏休みも終わりに近いある日、教養部の事務室で大庭、杉谷両氏に呼び止められて、ヨット部創設について話し合ったのが、そもそもの始まりであった。両氏に乗せられた感じではあったが、私自身もヨットと海に関心があったので、顧問教官を引き受けることにした。やがて大変な仕事と責任が自分一人にかかってくるとは、その時は思わなかったのは軽率であった。

 大庭さんは以前ボート部の創設に関係されたことがあり、また学生課におられたので、どうすればよいかをよく知っておられた。そこでまず団体結成届を提出することから始めることにした。しかし、学生がいないことには話しにならないので、私の名前で部員を募集することになり、我と思わん者は9月18日教養22番教室に来たれと掲示した。

 教室に行ってみると、大庭、杉谷両氏が誰も来ないという顔で座っている。しかし廊下に学生が立っているので事情を聞くと、ヨット部入部希望者であることがわかった。全部で10名くらいだったかと思うが、彼らにヨット部創設の話をした。そして、入部の意志のある学生だけを研究室に連れてきて、そこでさっそく幹部を決めることにした。唯一の3年生である永島君を主将、2年生の山崎君を主務と決めた。その後数日にして何名か入部し、全部で13、4名ぐらいになったと思う。9月21日に団体結成届けを学生課に提出したのである。

 前期試験終了後、ヨット部の活動が始まったが、ヨットがないのでただ構内を「ワッショイ、ワッショイ」と走るだけである。これではすぐにつぶれると思ったので、私の持っていたスパローの図面でヨットを制作させることにした。これについては、学生は必ずしも全面的に賛成していたわけではない。こんなことをして意味がないという気持ちを持っていたようである。すぐにヨットに乗りたいのである。しかし私としては、実績をつまないと学生課は相手にしてくれない以上、自作艇をえさに大魚を釣るしかない。だまされたと思って作れと激励したのを覚えている。

 最初の一年間は顧問教官といっても、実質的にはOB兼現場責任者という感じで、鼻であしらわれながら学生課に出かけて頭を下げ、縄田造船所へ行ってFRPの指導をたのみ、山口ボードセンターで材木を安くしかも借金でお願いし、そして学生を精神面で支えてやったりで、自分ながらよく働いたと思う。

 昭和52年の3月1日から5日まで、ヨット部最初の合宿を山大のグランド横の合宿所で行った。トレーニングと作業だけという、ヨット部というよりか造船部という内容の合宿であった。初日に学生を集めて話をしたが、いまに海に出れる、皆んなでヨット部をつくろうと激励したのを覚えている。グランドを背景に、今からすれば嘘みたいな風景であった。

 ヨット部の誕生そのものは、それほどのことはなかったが、誕生してから形ができるまでが何と言っても大変であった。最初は学生課からいつ潰れるかわからないクラブには金は出せませんと言われたりしたが、学生課の人たちの好意と支援がなければ、ヨット部ができ上がらなかったことは確かである。改めて、これまでお世話になった皆さんに感謝の意を表したいと思います。



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