I.ヨット部の体制と運営

顧問教官・部長 村上保壽(現名誉会長)

(1)

 昭和51年9月の創部以来、ヨット部は主将を中心とする幹部の合議制と各学年会での話し合いによって運営されて来たと言ってよいであろう。 運営の具体的なやり方なり、内容については、10年の間に多少の変化はあったとしても、基本的には大きな変遷は見られない。

 昭和52年の創設期においては、運動部のクラブとしての運営自体がどのようなものであるのかが、よく把握されていなかった。またヨット部の個性をどのような運営によって確立し、発揮するかという方針が不明であった。もちろん、この時期にそれを要求することの困難であることは事実であるが、その意味で暗中模索の時期であった。 従って、部員全員がヨット部をどのようなクラブにするかということでは、その精神において一致したものを見出すことが出来ず、結局は各個人の個性によって運営されていたと言える。 一言で言うと、人的関連の強い同好会的クラブであった。その意味で1期、2期、3期生の中には、現在のヨット部にアンビバレントな感情を持っているものがいることは理解できる。 ところで、この時期、2期生を中心とした学生たちが常にヨット部の伝統をつくることを考えていたことは評価しなければならない。

 昭和52年9月の体育会加入とスナイプ3艇の購入によって、運動部としての一つの活動型を持たざるを得なくなり、それが昭和53年4月から毎土、日曜の合宿を実行していく過程で、全員の意志の統一が現実からの働きかけによって少しずつ確立されて行った。この年5期生が大量に入部したこともいい刺激になったと思う。そして昭和54年3月の学連加盟と7月の中国インカレ初出場によって、ヨット部の体制と運営の在り方が現在に継承される形で確立されて行ったのである。その意味で、昭和53年から54年にかけてヨット部は一つのコーナーを回ったのである。

(2)

 幹部相互の一体化の問題について言えば、これについてはその年の主将と幹部の個性等によって内容的には多少異なるが、基本的には各学年会などによる意見の集約をはかることによって、幹部相互も一つの意思にまとまらざるを得なかったようである。

 しかし、幹部相互の一体化と幹部と下級生の意思の疎通が比較的うまく行き、一体としてのヨット部の意思の集約がなんとか出来上がっていくのは、5・6期生の幹部の頃からであろう。それでも本部と工学部の一体化はやや遅れて、7期生においてようやく確立されたと思う。

 ヨット部の運営については、主将に一切の負担がかかるということから、幹部が役割を分担し、下級生が隊長役に任じてそれぞれの責任を果たすという体制は、6・7期生頃から出来上がって来たものであろう。従って、ヨット部が一つの組織体としての力量を発揮するための体制は、昭和58年頃に大体の形をととのえたと理解してよい。創部以来7年である。その意味で、ヨット部の体制は、現在も日々完成の途上にあるのであって、更に新たな試みがなされなければならないと思う。

(3)

 女子部については、女子の参加するレースが国体予選に目標を置いていた時期は、3年生の夏に引退ということで、いま一つ目標実現の為の計画性と実行力に欠けていた。しかし、昭和59年に国体から中国女子学生大会(レディース)を目標に据えることによって、女子の現実的な活動目標が設定されて、女子部の活躍の場が確保された。また引退時期が6・7期生頃から4年生に入ってからとなって、実力向上にかなり評価できる状態になって来たと言える。



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