光り輝く!光での合宿生活

(7)学連加盟なる

3期・工学部主将 沢辺則彦

 確か、私が二年のときの夏合宿のことであった。当時の幹部の人達数名が光での夏合宿中に姿が見えなくなったことがあった。宮島で行われているインカレ予選に水大の応援に行かれたのであった。そして、帰ってこられて報告会があった。(1)近大の応援がすごかった。学ランを着て首まで海につかり、一列になって部旗のもと統制のとれた応援をしていた。(2)雷雨の下レースが行われていた。よくマストに雷が落ちなかったものだ。(3)広大は早い。(4)山大はまだまだ学連に加盟できそうにない。などであった。

 この年(昭和52年)のシーズン終了と共に当時三年生が引退表明をされた。昭和53年の2月頃まで私たち三期生の間で次期幹部のあり方についての調整ミーティングが何度も行われた。その時に話に出てきたのが、昭和54年7月のインカレ予選出場の可能性でした。そして、この時に出場できるできないにかかわらずインカレに出場するためには4年の夏まで頑張らなくちゃならないので、その体制の基礎作りをしよう、ということになった。そのために一期二キャプテンという変則システムを組みもした。しかし、どうせやるならインカレ初出場にかけてみようという欲が出てきた。

 二期の人達が調べてこられた情報によると学連加盟の条件は(1)創部三年を経っていること。(2)自前の救助船を所有していること。であった。その時には両方ともとても満たしている状況ではなかったため、学連の方から相手にもされなかった。しかし、神は味方してくれるものです。昭和53年の夏だったか、前述の私の広大の友達から電話がかかってきた。彼は私の一言で、ヨット部にとどまっていたのでした。そして、驚くべきことに470のチーフになっていると言う。そしてそして、またまた驚くべきことに中四に行かんかという。これは彼の勘違いだったらしく、条件を満たしていない旨伝えると、来年は三年目だろうがという。そうだと言うと、来年は中国インカレに出れるじゃあないか、宮島へ来いや、と簡単に言ってくれる。学連に入れてくれれば喜んで出場させてもらうと返答して電話を切った。その後一生懸命救助船を探し回った。それについてはぜーゲルの項を参照してもらうとして、先に進もう。

 昭和54年3月、広大で学連会議が行われた。四期の木元氏と二人で書類をさげて乗り込んでいった。前述の電話の件以降根回しは十分に行っていた。更に運の良いことには、山大同様その時に広大医学部がやはり加盟の申請をしていた。そして、彼らは十分な救助船を持っておらず、会議の席上このことに論議が集中して、私たちの方にはあまり視線が集まらなかった。この時点で加盟の内定は確実であった。その後行われた全日学連会議で正式に加盟が可決され、私が連絡を受けたのは5月上旬、新歓コンパの日だったと思う。やった!!という気持ちで一杯であった。後輩諸君、広大の恩に報いるためにも中国水域のレベルアップに貢献してもらいたいと願う次第です。



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