苦労多き六期生

6期・主将 鳥越実路

 ヨット部創立以来十年が過ぎたと言うが、ヨット部の歴史を区分すると、創設期、クラブ移行期、発展期ということになろうか。今、我々六期を振り返って見ると、クラブ移行期の終わりで、発展期への足がかりを作った時期であったように思う。また、その後のヨット部の活躍を見る限りに於いて、我々六期に課された仕事は果たしたという自負もある。

 村上先生の語録に「花の五期」という言葉があるが、正にその通りだと思う。五期は艇数、人材、精神面その他諸々の条件が、創設以来質量ともに一気にそろった時期だったように思える。つまりヨット部の歴史の中で、かつてなく賑々しく華々しい時期ではなかっただろうか。しかし、その反面、クラブ組織、合宿計画及び日程には、まだ行き当たりばったりといった荒削りな面が残っていた。また、傍目の華やかさに比べ成績面はいま一歩であった。彼らを受け継いだ我々六期の仕事は何はともあれ好成績を残すという形を残すための努力ではなかっただろうか。それで、古いものを切り、新しい何かを採り入れたいという気のあせりを持ってのスタートであった。

 例えば、「そして、しかし、また」という接続詞で引き延ばされていた二時間あまりの合宿でのミーティングを三十分足らずにしてみたり、多少名前ばかりになっていた勉強会を中止してみたり、反面、行ける者だけ金曜日から合宿に入ったり、ウエイトトレーニングでの強化に力を入れたり、とにかく新しい何かを掴むための試行錯誤の繰り返しであった。

 しかし、全てが理想に近い良い方向へ流れていった訳ではない。その中で我々が一番苦労したのは、古い対人関係を引きずってのクラブ運営であった。ここで特筆すべきことは、やはり、Kさんから選挙運動違反すれすれのアルバイトの依頼を受けたことから、様々な経過をたどって、山崎さんらを含む二期生の濤瀾会脱会に至った一連の事件である。これは、クラブ創設以来、光ではKさんの意見に従わなければならないのだという錯覚と私のいたらなさから起こった事件であり、六期の皆に迷惑をかけ、村上先生にしては断腸の思いであったに違いない。この事件を村上先生の力を借りて処理した後、先生の言われた言葉は今でも忘れることができない。「鳥越、始末書を書け。合宿中に違反すれすれの選挙運動のアルバイトをした事が世間に知れたら、お前はクラブをやめろ、私も部長をやめる。」

 その他にも、光丸を壊したり、ヨットを海苔網にかけたり、土中がインカレ中に流されたりといういろいろな出来事があった。

 とにかく、六期の試行錯誤はいろいろな面で後輩の悪しき手本ではあったが、良き見本になったのではなかろうか。そして我々もまた良い成績を収めることはできなかったが、中国インカレ二日目で暴風雨の中、棄権したり、リタイアする他校のヨットを横目に、一日目低迷した470級が六位に食い込めたことは今でも誇らしい記憶である。今まであった諸々の欠点を全てクリーンにして七期へ引き継げたわけではないが、クラブ移行を成し遂げ、発展期の足がかりを作れたのではなかろうか。一気に春が来たような五期、好成績を収めはじめた七期以降。その間に挟まれた我々六期、言うならば貧乏くじの六期であった。しかし私は、苦労多き光時代の最後を過ごし、良かれ悪しかれ誰にも出来ない経験が出来たことを誇りとともに思い出す。



Copyright(C) Yamaguchi University Yacht Club
inserted by FC2 system