工学部クラブになる

7期 広永美知生

 まず最初に工学部をクラブにする必要があった背景について述べる。当時、工学部内においてはヨット部は同好会として存在していた。学友会(体育会かつ文化会)から予算5千円を受け取るサークルにすぎなかったのである。学内でヨット部の存在すら知らない学生がほとんどであった。

 こういう時代の中で部員の人数も増え、実力も伴ってくると次に欲しくなるものはもちろん地位である。またクラブ昇格による予算の増加というのも大きな魅力であった。

 クラブ昇格を最初に考えたのは第六期工学部主将乗松尚樹であったが、当時のヨット部には手続きの方法さえわからなかった。

 工学部クラブ昇格の第一歩は第七期工学部主将広永美知生によって歩み出されたのである。まずクラブ昇格に必要なものを調べた。クラブ昇格規定なるものには学校の先生が部長として必要、人数7名以上、一年間の予備期間を置くなどのことが明記してあった。最終的には他クラブの過半数以上の承認によって認めることになっていた。これが一番の難題であるように思えた。

&emspそこで私(広永)が学友会副会長になることから出発し、ヨット部の存在または実力を他クラブにアピールした。またクラブ昇格願いを出してから、一年の予備期間中は月一回の活動報告書の提出、各大学行事への参加など我々クラブにとっては過酷な一年間であったのかもしれない。大学祭にはもちろんヨット部は合宿中であるので参加できない。このことが問題になったことさえあった。そのため大学祭用パンフレットの整理を部員全員で夜遅くまで手伝った記憶もある。このような一年間を我々はただクラブになるがために夢中に耐えてきたように思う。

 予備期間終了時の主将は第八期の山下廣へと受け継がれていた。昭和58年3月各クラブのリーダーによる会議によりヨット部はクラブとして承認されたのであった。工学部をクラブにするためになんと一年以上もの月日がたったのである。工学部がクラブになることによってヨット部が手に入れた最大のものは、やれば何でも出来るという自信とクラブとしての誇りであり、最初に考えていた地位とか予算なるものの獲得よりも大きなものを得たように思う。

 現在ヨット部は実力面においても工学部内では大きな力を持っているのである。次に必要になってくるものは本部のようにヨット部が体育会(学友会)のリーダー的存在となり、他クラブをも引っ張っていくくらいの大きな力を持つことである。



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