スナイプチーム全日へ

9期 馬場栄次

 「やった。遂に全日出場だ」私は、宮島の管理センターの窓に張り出された成績表を見て、そう思ったあと再度、夢でないことを確認した。目には涙があふれ出し、つらかったヨット部の四年間が次から次に思い出されて、それまでの人生で最高の感動を味わっていた。

 時は1985年6月23日の午後4時過ぎであった。前日まで、我々山口大学スナイプチームは、私の第三レース22位等の不振があり、鳥取大、広島工業大、そして広島大に次いで、全日出場圏内の2位までは、40点以上もの大差がついた4位であった。

 私はレースの初日が終わって、この結果を見たとき、「ああ、また今年もだめか」と心の中で思った。それと同時に、昨年と同じ思いを今年もするのかという気持ちでもう後悔の念で胸がいっぱいになっていた。

 私は三年で幹部になるときに、私はどんなに頑張っても、どんなに後輩を鍛えても、しばいても、とにかく最後に、中国インカレで勝ちさえ、全日に出場しさえすればいいんだと自分に言い聞かせた。そして一年間がむしゃらに、はっきり言って自分勝手なほど勝ちさえすればいいんだと思ってやってきた。そして、初日にこんな結果になってしまって、本当に頭の中が爆発しそうだった。さすがに初日の夜は、寝つきが悪かった。

 そして次の日、遂に運命のレース二日目がやってきた。OBの方々も大勢来ておられる。私は、雨まじりの無風の海を見て、とにかくレースさえあってくれれば、精一杯、学生生活最後の思い出として、力を出し切るつもりで、25286のティラーを握った。

 沖へ出ても風は吹いたりやんだりで、なかなかレースのスタートは切られなかった。他のメンバー、87の前田・谷川、22の北村・広江と、とにかくレースだけは行われてくれと祈った。そして超微風の雨模様の中、午後になり、ついに待望の第四レースの幕が切って落とされた。超微風のため、スタートがなかなか切れずに、私は第一上を25位くらいで回った。私は、もう半ばあきらめた感じでティラーを固く握りしめていた。

 しかし頑張らねば、昨日の第三レースの失敗(第一上5位からフィニッシュ22位)を繰り返さないように「ようし、ここまでヨットをやって来たんじゃ、絶対に全日にいったるぞー」と心に言い聞かせ、海面を見渡し、鳥取大や広島大も、みんな同じように苦しんでいるのを見て、風をつかもうと一心不乱にSAILINGをした。

 そしてサイドマークを回って下マークへ向かうときに、ブローをつかみ、あっという間にごぼう抜きし、なんと4位まで浮上した。そして下マークを回るころには、なんと22の北村は3位で回っていた。

 そして87の前田も10位ぐらいにいるではないか。私は、北村に声を掛け、「山大ファイト」を大声で掛け合った。もうこの時には、全日というより何か一緒に四年間をやってきた仲間とこうして最終レースで、しかも、互いにシングルでフィニッシュできることの喜びで一杯だった。

 そして、私は3位、北村は4位、前田は14位でフィニッシュし、鳥大の思わぬタイムリミットと、広大の不振により、浜へ帰ってみると、なんと全日へ行けるかもしれないという気持ちが高まっているではないか。

 私は広大に抗議されたものの、ラダーリングは却下されて、ついに本当の全日出場をつかんだのである。

 やはり四年間やってきたヨット生活に間違いはない、バンザイ山大ヨット部、そして、我がスナイプチームのレーサー達よ、いつまでもこの時を忘れずに頑張っていこう。



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