光り輝く!光での合宿生活

(8)ある救助船の一生・・・ゼーゲルン

 @ その誕生

3期・工学部主将 沢辺則彦

 学連に加盟する条件の一つに、自分達の救助船を所有していることというのがあった。その意味合いは、自主的なクラブ活動が行われているということと、安全面の二つのことが重要視されていた。私たちは当時光で乗艇練習を行っていた。救助船には光丸を使わせてもらっていた。学連に対しても光丸を使って練習しているので安全対策は十分ですと主張してきていたが、どうも学連は納得してくれない。しばらくして分かったのだが、光丸を使っているのは良いのだが、光丸が高校生のための監視船であるということにひっかかっていた様である。本来なら山大の練習に、高校生が混じってやっているべきところが、その逆であったために学連のあり方にひっかかっていたのであろう。問題はこの一点であった。とにかく自前の船さえあれば学連に加盟できるのである。

 当時、一晩で一万円になるというバイトがあった。御多分にもれず私も金欠病にかかっていた。のどから手が出るほど魅力的であった。またまた私事になるけれども、そのバイトの場所は宇部セメント工場の中であった。何の因果か、そこで勤務している今の私でさえも簡単に入れない貴重なところへ出入りさせてもらえた。そのバイト先である漁師の兄ちゃんと知り合いになった。彼に相談したところが、一緒に漁港を回ってくれた。そして、宇部岬漁港で一隻のぼろ船を見つけた。交渉の末、三十万円で譲ってくれると言う。もう何も考えず、部員全員に一万円ずつ出してもらい、買うことに決めてしまった。昭和54年の二月頃であった。とにかくボロであった。春休みに宇部岬漁港で補修、といっても船底塗料を塗ることが主な仕事ではあったが、光までの運搬を行うことになった。

 春休みの三月下旬、ゴエちゃんや徳山、中川、岩松、竹内、木元、笹井、柿木氏らが集まって、救助船のコーキングを行った。漁港脇の修理台の上にのせて、一生懸命ペンキを塗ったものだ。エンジンも何とか動いた。ティラーが十分ではなかったが、山から木を切ってきて作った。そして、いよいよ名前をつける段になった。色々案が出てきたが、柿木氏提案の「ゼーゲルン」にあっさり決まった。この時に、このゼーゲルンの波乱に飛んだ幕が開いたなどと予想できた部員が何人いたことであろう。

 コーキングが終わって数日後、四月一日から始まる春合宿のため、海路宇部から光の山大付属中学校の裏海へ自力で移動することになった。母校は付属中学校の裏海に決まっていた。朝七時頃だったか、村上先生、大庭さん、杉谷さん、木元君それに私が宇部岬の漁港に集まった。杉谷さんと木元君それに私の三人がゼーゲルンで、そして村上先生、大庭さんが車で二手に分かれて光へ向けて出発した。海上は防府沖まで結構時化ていたが、徳山沖の大津島あたりでは凪いでいた。そこの人間魚雷の基地跡で昼食を取り、笠戸大橋を過ぎ、室積湾の沖を通過するまで、まことに順調なクルージングが続いていた。杉谷さんはデッキで昼寝を楽しんでおられた。そして、エンジンルームのあかを汲んでいた時にエンジンが止まってしまった。象鼻ヶ崎のすぐ手前、目的地まであと五百メートル程のところであった。輝かしい救助船ならぬ救助され船のデビューであった。



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