光り輝く!光での合宿生活

(4)チャバスコ艇が入る

3期・主将 柿木達也

 チャバスコ艇とは、昭和52年当時、最新のスナイプ艇でありました。我々が現役の頃は、この艇がスナイプ級の主流でありました。そんな最新の艇が購入されたのは、それまでのヨット部の歴史からすると画期的な出来事でありました。

 それ以前の乗艇練習といえば、山口県ヨット連盟所属チームである新日鉄光やHYAから、それぞれ、ウッドのスナイプ(艇番7454、7457)、レーザーその他を借りるなど、多くの方々の好意に甘える形でやっていたのです。大切な艇を、よくもまあ我々素人に貸してくださったものです。県連の方々にも随分お世話になりました。みなさん、それぞれの立場で、純粋に、大学ヨット部を応援してくださったのだろうと思います。

 しかし、我々は、当時光市で、県連の方々からお世話になり過ぎていたように思います。いろいろな方々からの好意は、あまりにも大きく我々にのしかかってきたように思われてなりません。当然、早く上達し、一人前となり、将来、何らかの形でヨット連盟に貢献すべきなのでしょうが、当時の山口大学ヨット部としては少し荷が重かったように思います。山口大学ヨット部としてのアイデンティティは、当時、何もないと言っても過言ではなかったと思います。県連の艇庫を借り、県連所属のチームの艇を借り、そして、そんな中でおまけにヨットを操る技術もなかった我々は、これこそ山口大学ヨット部の証しであると言えるものを何も持っていませんでした。ただただ、あまりにも多くの好意を受け続けていただけでした。そんな状態は長く続けるわけにはいきません。

 そんな時でした。昭和52年9月、結成呼び掛けから約一年後に、チャバスコ艇3艇が購入されたのです。その年の8月にインターハイのヨット競技が光市で開催されたのですが、その時の使用艇が購入されたのです。山口大学ヨット部のアイデンティティの確立の第一歩となる画期的な出来事でした。これで、お世話になり過ぎの状態のほんの一部が解消したと感じたと同時に、自分たちの艇による乗艇練習が始まるのだと胸をはずませたものでした。

 とはいえ、新艇3艇を使った練習は、実質的には翌年の昭和53年の春合宿からでした。その年の冬は確か新日鉄から借りていたウッドのスナイプ(7454、7457)のコーキングをひたすらしたと記憶しています。冬の艇庫は寒く、かじかんだ手に息を吹きかけながら船底のペンキ落としをし、パテを詰め、ペーパーかけを繰り返し、ペンキを塗ったことを覚えています。その2艇も、翌年の昭和53年の春合宿で活躍したのですが、コーキングの仕方が悪かったのか、特に7454は水船になってしまいました。それでもやっと揃ったスナイプでの練習は、実に充実したものでした。

 しかし、まだまだ県連の方々に対する依存的な状態が、これから先、艇庫完成という時まで続いたのです。艇庫の完成は、我々にとって、その当時は夢のような話でした。しかし、その後昭和58年には完成したのですから、今から思えば、いかに我々ヨット部を支えていてくださった部長の村上先生が頑張られたかは、想像を絶するものがあると思います。その熱意には頭が下がります。改めて感謝の念を表したいと思います。

 我々にとっては、光市で過ごした時代は、喜びよりも苦痛の方がはるかに多く、思い出せば今でも恥ずかしくなるようなことばかりでしたが、それだけにいろいろなことがあり、感慨深いものです。



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