光り輝く!光での合宿生活

(5)三校対抗戦始まる

3期・主将 柿木達也

 昭和52年の9月にスナイプ3艇が購入され、山口大学ヨット部も、新たな時代を迎えました。本格的な乗艇練習に入るべき時が来たのです。

 昭和53年の春の合宿から、乗艇に関する基本的な知識を得るために、山口県ヨット連盟の人たちによって講習会が何度か開かれ、少しずつ知識面での充実が図られました。たとえば、当時の講習のいくつかを挙げますと、陸上トレーニングの仕方、海上練習として、タック、ジャイブ、ラフ、ベアーの仕方、強風時、微風時のタック、ジャイブ、人命救助、出艇、着艇等です。これらの講習を聞き、海上の練習で実際にそれを経験するといった試行錯誤が繰り返されたのでした。しかし、少し風が出ると、もう練習にはならなくて、ただ、いつ沈するか、そればかりが恐怖でありました。しかも一旦沈すれば起こすのにこれまた一苦労でありまして、今からは想像も出来ない素人集団でありました。

 そんな状態であったのですが、山口県内の下関水産大学、大島商船高専に対抗戦を申し込みに行ったのでした。大島まで申し込みに行ったのは、昭和53年3月15日でしたから、春合宿が始まる前のことでした。県内学連対抗戦を申し込み、それを我々にとっての目標として励みとすることにしたのです。下関水産大学も、大島商船高専も、それぞれ、下関、大島で練習を積んでいる精鋭でありまして、その胸を借りられるということで大いに燃えました。時期は5月頃、主管は言い出しっぺの山口大学ということになりましたが、当時の我々にヨットレースの運営ができるわけはなく、なんとなくもたもたしている間に、山口県連がほとんどその運営をしてくれることになったのでした。

 とにかく、我々はそれに向けて、なんとかヨットに乗れるようになりたくて、春合宿を組んだのですが、上記のように講習会での知識が海上で生かされてないような有様で、しかも、春合宿の終わりに受けたバッジテストの中級に合格したのは、部員数16人のうちの1人だけという悲惨な状態でありました。4月は新入部員勧誘でつぶれ、ほとんど素人のまま、第一回三校対抗戦を迎えることになりました。

 当日の5月21日は、風速8m、ブローで10m以上という、もう我々山口大学にとっては致命的なコンディションでありました。大島商船高専が毎レース安定して1位、2位、3位か4位、下関水産大学がその次で、山口大学は、もう大差でというか、ほとんどレースどころではなく、毎レース沈艇を出し、しかもゴールまで行き着かないという状態でありました。沈した艇は、センターボードが抜けてしまっており、起こすことが出来ない状態となり、勇敢な上級生が飛び込んでなんとか起こそうとしたのですが、5月の海はまだ寒く、体が硬直してきてしまい、陸に運ばれたときには、もう震えでうごけなくなってしまうという、大変な三校対抗戦の幕開けとなったのでした。後日開かれた反省会で問題となったのは、ヨット技術に関することではなく、陸当番のあり方や、応援の仕方のことや、艤装、解装に時間がかかりすぎること等であったことからも、山口大学のレベルがわかろうというものでした。ヨット技術に関することは二の次という状態であったのです。

 そんな時代に始まった三校対抗戦でありましたが、その後毎年、持ち回りで開催され、山口大学の実力も徐々に上がっていき、呼び掛けた私としても、他校になんとか恩返しができるようになってきたとほっとしている次第であります。今後も、山口大学が今度は他校のレベルアップに貢献できるように、この三校対抗戦を続けて欲しいものです。



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