光り輝く!光での合宿生活

(12)研修所での合宿生活

5期 三宅智司

 山口大学付属中学校敷地内にあった教育学部所有の研修所は、当時主に夏期・春期の長期合宿に使用されていた。洗面所、浴室、寝室、研修室等、長期宿泊施設としては申し分ないものであったが、唯一の欠点は艇庫から恐ろしく離れており、その間を走って往復せねばならないということであった。

 ・・・ その日、いい加減食い飽きたおばちゃん店のチロルチョコを食いながらMは思った、「あと12往復か..」 − このおばちゃん店というのは、研修所に隣接した部員達唯一の憩いの場であり、老若男女を問わず部員達の語らいの場であった。正式には佐藤商店という名前だったと思うが、そこの愛想の良いおばちゃんにちなんで、おばちゃん店とつけられたのだと思う。ちなみにその手前にはじいちゃん店という怪しげなる店もあったが、そこのじじいがあまりに不気味だったため、寄り付くものはほとんどいなかった。・・・ 翌朝目覚めると同時にMは雨音を聞いた。「やった!ランニング中止や!」しかし、皆の必死の雨乞いにもかかわらず、午前7時、雨はピタリと止んだ。部員達は皆口をつぐんでいた。朝はいつも重苦しかった。しかしランニングも終わりに近づくと誰もが列をくずして全速力で走っていた。朝のランニングは基本であり、部員達に闘志を燃え立たせるに十分であった。

 このパンツ何かおかしいな。俺のにしてはヤケに黄ばんでいる。Mがその日浴室でそう思いながらパンツを脱いだときはすでに遅かった。当時男子部員の間では、伝染性股間皮膚疾患が流行っていた。それは風呂、ウエットスーツの共同使用、或いはパンツのはき違いによってまたたく間に蔓延した。ちなみにMが取り違えたパンツは先天性重症患者として名高い同期の主将Kのものであった。ちなみにもう一人全身にその症状を呈していた6期のYは他の部員から隔離され、入浴も4年、3年、2年、1年、Yの順序で行われた。そのYが一人をいいことに、いつも風呂で妙な遊びに浸っていたというのはあまりにも有名な話である。

 昭和55年の夏合宿からは研修所の賃料が高騰したため、合宿所は艇庫の近くにある小汚い空団地へと移された。部員は4〜6名ずつ個室に分けられたため統制の面から言えば良しとはされなかったが、苦しい財政の下ではやむを得なかった。苦しいと言えば話はそれるが、当時ヨット部は大変貧乏であった。財政維持のため、春期には新人を甘い言葉で大量に仕入れ、夏休みの強制バイトの上前をハネたあげく、秋にはしごいてやめさせる、というのが幹部の考えであった。しかしヨット部の新人には妙に執着心の強いものばかり多く、ほとんどやめる者がいなかったのは嬉しい誤算でもあった。

 合宿の最後を飾るものは何といっても最終日の打ち上げであろう。ほいすかずんばと踊り狂い、ひとつとせと手拍子をたたきながら回りの苦情をものともせず大声でわめいては吐いた。その時1年の心にあったものは「これで帰れる」という安心感であり、2年の心にあったものは「乗り越えた」という満足感であっただろう。3年、4年は充実感、安堵、迷い等各々で感じ方が変わっているに違いない。しかし日々の練習、合宿を通じて得た仲間の、その尊さは既にOBとなってしまったMの心の中にも磨き上げたセンターボードの様に輝いている。

 我々にこの素晴らしきものを限りなく与え続けてくれる山口大学ヨット部が生まれて10周年。事故の起こることなく、更なる前進を心から求めてやみません。



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