修大との合同合宿
8期 前田憲明
きっかけは前年のインカレまで遡るであろうか。
あまりはっきりと憶えてはいない。
知る人ぞ知る、「前田メモ」を引っ張り出して、当時をふり返ってみた。
三年のインカレの時、宮島でインカレ前に合宿をした時のことだった。(例の坂本がパスファインダーに向かって「スターボー!」をかました合宿である。)
修大の中に一人、妙に年をくった、(様に見える)麦わら帽をかぶったスキッパーがいた。
彼の名は・・・・・・忘れた。
彼は速かった。
よくヨットのことを知っていた。
何よりも宮島のことを知っていた。
これは是非、知り合いになる方が自分のためだと思った。
インカレ終了後、私は彼のところへ話をうかがいに行った。そこで一人の男を紹介された。
彼の名は「植野・・」。 頭はでかいが、ハンサムだった。
すぐに気が合い、翌年宮島で合同合宿をやろうということになった。
試験が終わるとすぐに、西日インカレの申し込みで福岡に行き、その足ですぐに広島に行った。
レディースの最終打ち合わせと合同合宿についてである。その日はモーツァルトでケーキを食べて帰った。彼女へみやげを買って帰ったが、間もなくフラれてしまった。
合同合宿は日程的にも正味一週間と短く、艇も少ないため、あまり乗艇はできなかった。
しかし、初めて宮島の海面で乗艇したこと、修大、広工、近大などの練習方法をぬすめたこと、修大のヨット部員と交流したこと、自分達のレベルが他の大学と比較されたこと等は、三か月後の中国インカレを前にして、大きな財産となったと思う。
あの時ほど、ヨットに乗りたいと思ったことはなかった。
何かを得て帰るんだ。という気持ちが全部員に広がっていたと思う。
風そのものには、あまりめぐまれなかったし、私もムシ歯を治療しに廿日市(はつかいち)まで行ったり、雨も降って乗艇できない日もあったが、何よりも初の遠征、初の合同合宿、初の中国レディースを何が何でも成功させるんだ。という気概を持っていた。
私はあの合宿で裏方に回って、事務処理に追われることが多かったが、事故もなく、無事に終わったことで責任の一つを果たせたと思っている。(正確には、川口が私の車を電柱にぶつけたが)
今まで何もなかった所に一つの伝統を築くことの難しさをあの時ほど実感したことはなかった。
ヨット部先輩諸氏の苦労がよくわかった。
今一番嬉しく思うことは、後輩達が合同合宿をずっと続けてくれていることである。
これからもずっと続けていってもらいたいし、やがては、広島勢が秋穂に行かせてくれと申し込んでくるようになってもらいたい。これが私の願いの一つである。